เข้าสู่ระบบ校門を越えた瞬間、五人のスマートフォンが一斉に鳴った。
短い通知音、着信を知らせる振動、圏外から通信網へ復帰したときの表示が重なり、雨上がりの山道に不自然なほど生活の音が戻ってくる。澪は足を止め、画面の左上に立ったアンテナ表示を何度も確かめた。つい数歩前まで、一度も外部へつながらなかった端末だった。
「電波、戻ってる」
奈々香の声は掠れていた。濡れた衣服の上から美月に渡された保温シートを巻き、両手でスマートフォンを握っている。
「警察」
美月はそれだけ言うと、すぐ緊急通報を始めた。
悠斗も別の番号へ電話を掛け、管理会社へ現在地と校門の開放を伝えている。朔は校舎を振り返ったまま、小型カメラの録画を止めなかった。夜の底に沈んだ七刻女学校は、さっきまで五人を閉じ込めていた建物とは思えないほど静かだった。
澪は喉を押さえながら、門の内側を見た。
透を連れて出られなかった。
二年七組へ戻ったとき、遺体は消えていた。封印は破られておらず、窓も開いていなかった。それでも簡易担架の上には、〈七刻女学校・八人目〉と書かれた濡れたカセットテープしか残されていなかった。
「相馬透さん、二十九歳。意識なしではなく、死亡を確認しています」
美月の声が電話口で硬くなる。
「救命救急に勤務しています。私が頸動脈、呼吸、瞳孔を確認しました。首に強い圧迫痕がありました。遺体が……今は見つからないんです」
相手が何を訊いたのか、美月は一度目を閉じた。
「いいえ、説明が難しいのは分かっています。でも、死んでいました。五人全員が確認しています」
雨はほとんど上がっていた。
雲の切れ間から、東の空だけが薄く白み始めている。夜明け前の冷えた風が山から降り、濡れた木々の匂いを運んできた。
澪はその風の中で、初めて自分の身体がひどく震えていることに気づいた。
怖かったからだけではない。
疲労。
寒さ。
そして、透を置いてきたという感覚。
いや。
置いてきたのではない。
消えた。
その違いを、頭が受け入れようとしなかった。
最初の警察車両が到着したのは、空が灰色へ変わり始めた頃だった。
続いて救急車、所轄の捜査員、鑑識車両。山道の入口から校門まで白と赤の灯りが連なり、七刻女学校は短時間で封鎖された。五人は一人ずつ毛布を渡され、別々に事情を聞かれることになった。
澪は救急車の横に置かれた折り畳み椅子へ座り、紙コップの温かい飲み物を両手で包んでいた。
「放送室で亡くなったんですね」
正面に座る刑事が確認する。
四十代ほどの男だった。疲れた目をしているが、声は穏やかだった。
「はい」
「亡くなったと判断した根拠は?」
「美月……早乙女美月が確認しました。救命救急で働いています」
「雨宮さん自身も身体を見ましたか」
「見ました」
「呼吸していましたか」
「していませんでした」
「そのあと?」
「放送室から出て、二年七組へ運びました」
「なぜその教室へ?」
「ほかに安全な場所がなかったからです。窓を確認して、扉も……外から誰かが入ったら分かるようにテープを貼って」
刑事の筆が止まる。
「遺体を置いたあと、全員がそこを離れた?」
「はい」
「戻ったときにはいなかった」
「はい」
「五人全員が?」
「同じものを見ています」
刑事は否定しなかった。
ただ、手元の紙へ何かを書き足した。
その表情が、澪には怖かった。
信じている顔ではない。
疑っている顔でもない。
理解できない証言を、ひとまず記録だけしている顔だった。
校舎内部の捜索は夜明けと同時に始まった。
鑑識が放送室へ入り、血痕、切断された磁気テープ、透明な糸、小型モーター、遠隔受信機を確認する。管理通路と監視室も発見された。
七不思議を再現するための装置。
監視カメラ。
制御端末。
生活を盗撮した写真。
透を第一犠牲者として記した進行表。
そこまでは、五人の証言通りだった。
問題は、相馬透そのものだった。
「いない?」
美月が捜査員へ詰め寄ったのは、午前六時を過ぎた頃だった。
「二年七組を見たんですよね」
「確認しています」
「机の上です。私たちが作った担架ごと置いた」
「担架はありました」
「じゃあ透は」
「見つかっていません」
美月の顔色が変わった。
「そんなはずない」
「校内全体を捜索しています」
「放送室から教室まで血痕は?」
「現在確認中です」
「遺体を運んだ痕跡が残ってるでしょう」
捜査員は一度だけ周囲を見た。
「こちらで調べます。早乙女さんは待機してください」
美月は何か言い返そうとした。
けれど、その腕を澪が掴んだ。
「美月」
「でも」
「分かってる」
澪の手も震えていた。
「私も見た」
美月は澪を見つめ、ようやく一歩退いた。
昼に近づくにつれ、不可解さだけが増えていった。
放送室には確かに血液が残っていた。
しかし量が少ない。
首を絞められて死亡したなら、大量出血する必要はない。それでも、現場だけで人が死亡したと断定できる痕跡は見つからないという。
磁気テープには皮脂や微量の血液が残っていたが、それが透のものかは鑑定を待たなければならない。
二年七組。
封印用テープは破られていない。
窓も内側から施錠。
机の位置も五人が説明した通り。
ただし、遺体だけがない。
「まるで最初から、相馬さんの遺体なんてなかったみたいですね」
若い警察官が小声で言うのを、澪は聞いてしまった。
胸の奥が冷えた。
違う。
いた。
透は死んだ。
美月が頸動脈へ触れた。
奈々香が泣いた。
悠斗が自殺だと言い張った。
朔が装置を調べた。
澪は冷え始めた透の頭を支え、担架へ移した。
あの重さまで覚えている。
「映像を見れば分かる」
奈々香が言った。
事情聴取の合間、五人が一時的に同じ待機場所へ集められたときだった。
「朔、撮ってたよね。ずっと」
朔は小型カメラを取り出した。
すでに警察へ提出するため、映像の複製を始めている。
「放送室は入ってる」
液晶を開く。
透が床へ倒れている場面。
美月が死亡を確認する場面。
首へ巻かれた黒い磁気テープ。
確かに映っていた。
「ほら」
奈々香が画面を指す。
「いるじゃん。透じゃん」
だが、映像が二年七組への移動へ切り替わった瞬間。
画面に激しいノイズが走った。
簡易担架。
朔と悠斗が前後を持つ。
澪と美月が横から支える。
奈々香が後ろから照らす。
担架の上にも、人間らしい輪郭はある。
ただし。
顔がない。
透の顔があるべき部分だけ、白と黒のノイズで潰れていた。
「何これ」
美月が画面へ近づく。
次の場面。
肩。
首。
顔。
透の身体へカメラが向くたび、その部分だけ映像が崩れる。
「書き換えた?」
澪が朔を見る。
朔はすぐに映像情報を確認した。
「書き換えた形跡はない」
「でも壊れてる」
「ファイル自体は連続してる。時刻情報も切れてない。編集したときに出る再圧縮の痕もない」
「じゃあ、どうして透だけ」
「分からない」
奈々香も自分のスマートフォンを確認した。
勝手に保存されていた動画。
放送室。
二年七組。
そこにも同じ異常があった。
透の首に磁気テープが巻かれている場面は映る。
だが顔だけが潰れている。
美月が身体へ触れる場面では、指先の先だけがノイズへ沈む。
「私たち、誰を触ってたの」
奈々香の声が震えた。
「透だよ」
澪はすぐに言った。
「透だった」
「でも、警察は遺体がないって」
「いた」
美月の声が重なる。
「私は死亡確認した」
朔は映像を止めた。
「警察から見れば、相馬透は死亡者にはできない」
悠斗が顔を上げる。
「何でだよ」
「遺体がない。現場の血液も少ない。映像も本人だと確認できない。俺たち五人の証言だけだ」
「五人全員同じこと言ってるんだぞ」
「だから余計に疑われる可能性もある」
悠斗の顔が引きつった。
「俺たちが口裏合わせてるって?」
「可能性としては見る」
実際、その日の朝、警察は相馬透を死亡者ではなく行方不明者として捜索すると五人へ告げた。
澪には、その言葉が現実のものと思えなかった。
死んだ人間が、行方不明になる。
八年前の澄花と同じだった。
大量の血。
遺体がない。
失踪。
そして今。
透まで。
警察署を出た頃には、朝の光が街を白く照らしていた。
雨は完全に上がっている。
長い夜が終わったはずなのに、澪にはまだ夜の中にいるように感じられた。
正面階段を下りる。
歩道の脇に、一人の男が立っていた。
黒いジャケット。
長身。
三十歳前後に見える。
整った顔立ちだが、目だけがひどく鋭い。誰かを待っているというより、逃げ道を塞ぐために立っているようだった。
澪が通り過ぎようとすると、男が動いた。
「雨宮澪さんですね」
足が止まる。
「誰ですか」
男は内ポケットから名刺を取り出した。
御影蓮司。
建物調査会社代表。
澪は名前に覚えがなかった。
しかし、その下へ書かれた会社名を読む前に、蓮司が言った。
「椎名澄花の兄です」
心臓が一度、大きく打った。
「兄……?」
「異母兄です」
蓮司の声は低い。
「八年前は、あなたたちへ直接会うことを家族から止められていました」
澪の背後で、朔たちも足を止めた。
蓮司の視線が、五人を順番に見る。
温度のない目だった。
「八年前、妹が消えた夜に何があったのか」
最後に澪へ戻る。
「今度こそ、全部話してもらいます」
「私たちは――」
澪が言葉を探した、その瞬間。
スマートフォンが震えた。
胸の奥が先に冷えた。
見なくても分かった。
画面を開く。
椎名澄花。
八年前の番号。
新しいメッセージ。
次は常世荘です。
人形を元の部屋へ返してください。 七日目までに返せなかった場合、 五人の中から女を一人もらいます。澪の指が止まった。
現在、生き残っている女性。
澪。
美月。
奈々香。
三人。
「何が来た」
朔が隣へ立つ。
澪は答えず、添付画像を開いた。
古い和室。
黄色く変色した畳。
壁紙には黒い染み。
常世荘二〇三号室。
中央に、小さな日本人形が座っている。
返し雛。
白い顔。
閉じた目。
赤黒い唇。
八年前、澄花が七刻女学校へ持ち込んだ人形。
「これ……」
奈々香が息を呑んだ。
澪は画像を拡大した。
人形の後ろ。
壁の染みだと思った場所。
そこから、人間の顔が半分だけ覗いていた。
女だった。
髪は長く、壁の中へ埋もれている。
額。
片方の目。
頬。
口元だけが見える。
その目は、人形ではなく。
画面のこちら側を見ていた。
澪がさらに拡大した瞬間。
壁から覗く女の口が、写真の中でゆっくり開いた。
校門を越えた瞬間、五人のスマートフォンが一斉に鳴った。 短い通知音、着信を知らせる振動、圏外から通信網へ復帰したときの表示が重なり、雨上がりの山道に不自然なほど生活の音が戻ってくる。澪は足を止め、画面の左上に立ったアンテナ表示を何度も確かめた。つい数歩前まで、一度も外部へつながらなかった端末だった。「電波、戻ってる」 奈々香の声は掠れていた。濡れた衣服の上から美月に渡された保温シートを巻き、両手でスマートフォンを握っている。「警察」 美月はそれだけ言うと、すぐ緊急通報を始めた。 悠斗も別の番号へ電話を掛け、管理会社へ現在地と校門の開放を伝えている。朔は校舎を振り返ったまま、小型カメラの録画を止めなかった。夜の底に沈んだ七刻女学校は、さっきまで五人を閉じ込めていた建物とは思えないほど静かだった。 澪は喉を押さえながら、門の内側を見た。 透を連れて出られなかった。 二年七組へ戻ったとき、遺体は消えていた。封印は破られておらず、窓も開いていなかった。それでも簡易担架の上には、〈七刻女学校・八人目〉と書かれた濡れたカセットテープしか残されていなかった。「相馬透さん、二十九歳。意識なしではなく、死亡を確認しています」 美月の声が電話口で硬くなる。「救命救急に勤務しています。私が頸動脈、呼吸、瞳孔を確認しました。首に強い圧迫痕がありました。遺体が……今は見つからないんです」 相手が何を訊いたのか、美月は一度目を閉じた。「いいえ、説明が難しいのは分かっています。でも、死んでいました。五人全員が確認しています」 雨はほとんど上がっていた。 雲の切れ間から、東の空だけが薄く白み始めている。夜明け前の冷えた風が山から降り、濡れた木々の匂いを運んできた。 澪はその風の中で、初めて自分の身体がひどく震えていることに気づいた。 怖かったからだけではない。 疲労。 寒さ。 そして、透を置いてきたという感覚。 いや。 置いてきたのではない。 消えた。 その違いを、頭が受け入れようとしなかった。 最初の警察車両が到着したのは、空が灰色へ変わり始めた頃だった。 続いて救急車、所轄の捜査員、鑑識車両。山道の入口から校門まで白と赤の灯りが連なり、七刻女学校は短時間で封鎖された。五人は一人ずつ毛布を渡され、別々に事情を聞かれることになった。 澪は
映像は、何度止めても同じ場所から始まった。 雨に濡れた七刻女学校の校門。 錆びた鉄柵。 まだ誰も到着していない山道。 そして、午後十時四十分を少し過ぎた時刻。 黒い雨具を着た人物が、画面の左端から現れる。 理科準備室の床へ置かれた古いビデオカメラを囲み、五人は黙ってその姿を見つめていた。 人物は深くフードを被っている。 顔は見えない。 背丈は朔や悠斗と大きく変わらないようにも見えるが、厚い雨具のせいで肩幅すら判別しづらい。歩幅も一定ではない。わざと特徴を消して歩いているようだった。 人物は門の前で立ち止まる。 腰を屈める。 地面へ置かれていた太い鎖を拾った。「巻き戻して」 美月が言った。 朔が映像を数秒戻す。 黒い人物が鎖へ触れる直前。 門にはまだ、六つの木箱がない。 再生。 人物は鎖を外し、門扉を人一人が通れる幅だけ開いた。 そのあと画面の外へ消える。 二分ほどして戻ってきたとき、両手に古い木箱を二つ抱えていた。 一度。 二度。 三度。 往復し、六つの箱を門前へ並べる。 雨宮澪。 神代朔。 早乙女美月。 黒瀬悠斗。 白石奈々香。 相馬透。 それぞれの名札を確認するように、人物が一つずつ蓋へ手を置く。「最初から、こいつが置いた」 悠斗の声が低くなった。「箱も。鎖を外したのも」「装置の起動時刻とも近い」 朔は監視室で撮影した操作記録を呼び出し、時刻を照らし合わせる。「管理者の最終ログインが十一時七分。その前後に、各部屋の制御装置が待機状態へ入ってる」「この人がやった?」 奈々香が訊く。「可能性は高い」「透を殺したのも?」 声が震える。 誰もすぐには答えなかった。 画面の中で、黒い人物は最後の箱を置き終えると、校門を抜けて校舎へ向かっていく。 右手には撮影用のカメラ。 左手には小さな黒い鞄。 管理通路にあった装置を操作するための端末が入っていたとしても不思議ではない大きさだった。「待って」 澪が画面へ近づいた。「手」 黒い人物が雨具のフードへ触れる。 袖口が少し上がる。 右手首に腕時計。 黒い文字盤。 銀色の縁。 太い革のベルト。 悠斗が自分の手首を隠すように腕を下ろした。 八年前の映像。 理科準備室へ澄花を押し込んだ人物。 画面の端へ一瞬だけ映
紫外線の光に浮かんだ文字を、五人はしばらく見つめていた。 私はここから出た。 でも、誰かがもう一度連れ戻した。 壁材へ染み込んだ文字は、表面だけに書かれたものではなかった。美月が手袋をつけ、剥がれかけた塗装の端を慎重に確認する。紫外線を角度を変えて当てると、文字の輪郭は壁の内側まで残っていた。「最近書いたものじゃない」 美月が低く言った。 澪は振り返る。「分かるの?」「塗装の上に書かれてるんじゃない。古い層まで染みてる。少なくとも、今夜誰かが書いたとは考えにくい」 悠斗が焦げた壁へ近づく。「八年前?」「断定はできない。でも、その可能性は高い」 奈々香が両腕を抱いた。「じゃあ、本当に澄花が書いたの?」 誰も答えられなかった。 だが筆跡は澄花のものだった。 音楽室の楽譜。 心霊研究会の古いノート。 高校時代、澄花が何度も書いた丸みのある文字と一致している。 澪は一行目を見た。 私はここから出た。 胸の奥で、八年間動かなかった何かが崩れた。「じゃあ……」 声が掠れる。「私が澄花を置いて逃げたあとも、生きてた」 美月が澪を見る。「そうなる」「準備室から出た」「少なくとも、これが本人の記録なら」 澪は焦げた扉を見た。 八年前の自分。 開かない扉。 助けを求める澄花。 背後から腕を掴んだ誰か。 そして、自分は逃げた。 その記憶を、ずっと澄花の最後だと思っていた。「私が見捨てたから死んだんじゃない」 言葉にした瞬間、胸が軽くなることはなかった。 むしろ別の重さが加わった。「でも、誰かがもう一度連れ戻した」 壁の二行目。 美月の目がそこへ落ちる。「一度出た澄花を、誰かが捕まえた」「事件の翌日まで生きてたなら」 悠斗が検査記録を見る。「その誰かは、警察が捜索してる最中にも校内を動けたってことになる」「管理通路を使えば」 奈々香が言う。「見つからずに動ける」 朔は無言で壁の文字と通路図を撮影していた。 澪はその横顔を見て、胸元の手帳へ指を当てた。 まだ隠している。 朔が撮っているものと、私たちが見ているものは同じじゃない。 その一文が、いままでよりはっきりと意味を持ち始めていた。「翌日」 美月が突然呟いた。 澪が見る。 美月は小瓶を握ったまま、視線を床へ落としている。
管理通路は、理科準備室の裏側へ近づくほど狭くなった。 古い給水管と新しい電線が頭上で絡み、ところどころ壁から剥き出しの鉄骨が突き出している。五人は身体を横へ傾けながら、一列になって進んだ。 先頭の朔が足を止める。「この先だ」 懐中電灯の光が、コンクリート壁の小さな表示札を照らした。 理科準備室。 文字を見ただけで、澪の呼吸が浅くなった。 胸の奥へ冷たい指を差し込まれたように、息が途中で止まる。 八年前。 濡れた木の扉。 爪で何度も表面を引っかく音。『澪ちゃん、開けて』 澄花の声。 取っ手へ両手を掛けた自分。 そして、背後から腕を掴んだ誰か。 耳元へ落ちた低い男の声。『もう助からない』「澪」 朔の声で、記憶が切れた。 目の前に彼の肩がある。「止まるか」「止まらない」 答えるまでに一度、唾を飲み込んだ。「行く」 朔は何も言わず、歩幅を少しだけ落とした。 管理通路の終わりに、点検口があった。 内側から押すと、薄い金属板が動く。その向こうは理科準備室へ続く小さな物置だった。五人は順番に這い出し、埃の積もった床へ降りる。 澪が最初に見たのは、扉だった。 廊下側へ通じる木製の扉。 表面の下半分が黒く焦げている。 焼けた木は波打ち、取っ手の周囲には熱で膨らんだ塗膜が固まっていた。 八年前の火災警報。 白い煙。 鼻の奥へ、存在しない焦げ臭さが戻ってくる。「焼け跡は古い」 悠斗が低く言った。「事件のときのままだ」 美月が扉へ近づく。「でも、鍵は違う」 錠前だけが新しかった。 銀色の金属はほとんど錆びておらず、焦げた木製扉へ無理に埋め込まれている。螺子にも新しい傷が残り、数年以内に交換されたことは明らかだった。「こっちからは開かない」 朔が取っ手を回す。 内側のつまみすら動かなかった。「管理通路から入れるのに、わざわざ廊下側を新しい鍵で閉じてる」 美月が眉を寄せた。「誰かを閉じ込めるため?」「あるいは、外から入らせないため」 朔は工具を出した。 細い金属片を錠前の隙間へ差し込み、内部の位置を探る。二度、三度と角度を変える。 かちり。 小さな音。 錠が外れた。 扉は数センチだけ開き、廊下の暗闇が見えた。 その隙間から、爪で木を掻く音が聞こえた。 きい。 澪の身体が固まる。
第二犠牲者の名は、黒く塗り潰されたままだった。 監視室の机に置かれた進行表。その紙面を覆う黒いインクは、何度光を当てても下の文字を透かさない。 澪は指先で紙の端を押さえたまま、息を詰めていた。 すぐ背後で聞こえた椅子を引く音は、もう消えている。 振り返っても、監視室には五人しかいなかった。 朔。 美月。 悠斗。 奈々香。 そして澪。 十数台のモニターから漏れる青白い光が、全員の顔を不健康な色へ染めている。機械の冷却ファンが低く唸り、壁内を走る新しい配線の表示灯が一定の間隔で瞬いていた。 右端の画面。 図面には存在しない教室。 制服姿の少女は、先ほど引いた椅子の横へ立っている。 顔は見えない。 背を向けたまま、次に座る誰かを待っているようだった。「台本、全部見せて」 美月が言った。 朔が進行表を机の中央へ移す。「触るなら手袋を」「分かってる」 美月は薄い手袋をつけ、透の死亡が記された頁を慎重にめくった。 次の頁には、七不思議ごとの準備項目が並んでいる。 必要機材。 想定反応。 対象者。 誘導文。 その書き方に、悠斗の目が止まった。「待て」 身を乗り出す。「ここ」 指したのは、十三段目について書かれた箇所だった。 〈異常を否定する者を先行させ、残りの反応を撮影する〉 短い一文。 悠斗の顔から血の気が引いた。「これ……俺が書いた」「今夜?」 奈々香が訊く。「違う」 悠斗は首を振った。「八年前だ」 監視室が静かになった。「心霊研究会で、探索計画書を作った。どの場所をどう回るか、誰が先に入るか。動画として面白くなる順番も決めた。そのとき使った言い方だ」「同じ文章?」 美月が問う。「ほぼ同じ」 悠斗は進行表をめくった。 音楽室。 〈音の発生源を確認する者を先に室内へ入れる〉 舞踊室。 〈最後尾の人物だけ遅れているように見せる〉 放送室。 〈実際の声と録音を混ぜ、どこから聞こえているか判断できなくする〉 悠斗の指が止まる。「これも」「全部、昔の計画書に?」「そのままじゃない。でも言葉の癖が同じだ」 朔が一冊の黒いファイルを開いた。「八年前の計画書は残ってるのか」「警察に提出したはずだ」「複製は?」「部室のパソコンにあった」「誰でも見られた?」「部員なら
管理通路は、人間が歩くために作られたというより、建物の臓腑へ無理に押し込まれた裂け目のようだった。 肩幅ほどしかないコンクリートの壁。頭上には錆びた水道管と、後から増設された新しい電線が何本も絡み合っている。古い鉄から落ちる赤錆と、樹脂被膜のまだ新しい匂いが混ざり、湿った空気が喉へまとわりついた。 五人は一列になって進んだ。 先頭は朔。その後ろに澪、美月、奈々香、最後を悠斗が歩く。 誰も背後を空けたくなかった。 だからといって、この狭さでは振り返ることも難しい。 壁に固定された赤い表示灯が、一つ先へ進むたび順番に点灯していく。 かち。 かち。 まるで五人の位置を誰かが確認しながら、道を開いているようだった。「止まって」 朔が片手を上げた。 澪は背中へぶつかりかけ、足を止める。 右側の壁に、細い横穴が開いていた。 高さは目の位置ほど。横幅十センチほどしかない。換気口にしては不自然で、縁だけ埃が薄い。 朔が懐中電灯を消し、穴へ目を近づけた。「何が見える?」 澪が囁く。「放送室」 朔が横へずれた。 澪も覗く。 壁の向こうに、透が死んだ放送室が見えた。 壊された扉。 床の血痕。 切断された黒い磁気テープ。 オープンリール式録音機。 見える角度は、透が倒れていた位置を真正面から捉えている。 もし誰かがここに立っていたなら。 透が首へ絡んだテープを外そうともがく姿を、最後まで見ていられた。 澪は目を離した。 首筋が冷える。「これ、覗き穴……?」 奈々香の声が細い。「そう見える」 美月が答えた。 数メートル進むと、また穴があった。 今度は音楽室。 グランドピアノを横から見下ろす位置。 ソレノイドの仕掛けを調べていた五人の姿も、ここからなら死角なく見えていたはずだ。 次は女子トイレ。 四番目の個室を隠す壁の裏側。 さらに舞踊室。 一方通行の鏡の向こう。 奈々香が足を止めた。「ずっと……見てたってこと?」 誰も返事をしなかった。 鏡の中で自分だけが遅れたとき。 耳から血が流れたとき。 四番目の個室へ閉じ込められたとき。 誰かが壁の向こうから、その恐怖を見ていた。 それも、怪異が起きた結果を偶然確認したのではない。 最初から見るために穴を開けている。 澪は背後の奈々香が呼吸を乱す